我が人生を生きる

あなたが自然に従うのと、自然があなたに従うのと、どちらが正しいと思いますか。
このことについて、答えてくれませんか。
いずれにしろいつか立ち去らねばならぬところを少々早く立ち去ったところで、それがどうしたというのでしょう。
我々が意を用いねばならないことは、長く生きることにではなくて、満足して生きるということにおいてこそ、そうしなければならないのです。
なぜなら、あなたが長く生きるには運命が必要ですが、満足して生きるのはあなたの心次第だからです。
人生が充実したものであるなら、人生は十分に長いと言えます。
しかし、人生を充実したものにするには、心が心特有の善を発達させ、自分が自分自身の主とならねばならないのです。
生をただ無為に生きるならば、八十年(あるいは九十年、あるいは百年)生きたとてなんになるでしょう。
そんな人間は、生きたのではなく、人生に滞在していただけなのです。
(参考:中野孝次セネカ 現代人への手紙』、「ルキリウスへの手紙」。一部、理解しやすくするため加筆、修正させていただきました。)


自分が自分の人生の主となることが大切です。
自分が自分の主となって生きていると思っていても、あんがいそうでないことが多いように思えます。それは、「自分が自分の主」というとき、それを自我を主体と考えるからなのでしょう。
自身を深く理解すると、そうでないことがわかります。
しかし、深く理解せずとも、実は知っているはずなのです。知識に惑わされてはいけません。

人生のすべてを無為に過ごす人間などいないでしょう。
しかし、無為に過ごす人生の時間が多い人、少ない人がいることは間違いありません。
特に、青年期の一時期、さらには人生の終盤はよくよく気をつけねばなりません。

人生の終盤がいつなのかは人によって異なりますが、それは自らの人生を全うする上において、いっそう大切な時のはずです。

我が善とは何か、「主」として生きるとはどういうことか。
それらは、自身のうちに見い出さねばなりません。
セネカは、そういうところに満足のある人生、充実した人生がある、と言っているのです。