学びと人生

自分はどのように生きるのか、生きるべきなのか、また、いかに死すべきか、あるいは、日々にどのように行動すべきなのか、どのように行動すべきでないのか、
これを学ぼうとするのが、本来の学びである。
これは、現在の教育制度でいう勉強とは異なる学びなのだ。
そして、これこそ本当の「学び」と言ってよい。

高齢になって、学びたい、勉強したいという思いから、各種の学習の機会に参じ、熱心に学ぶ者の姿を見るが、本来の「学び」の自覚も無く、学びの席についている者が多い。

くだらぬ話をする者も確かに多いのだが、真に学びとなる話かどうかを見極める目を持つのも、学ぶ者の自覚と姿勢によるのである。

良い機会を得ながら、自身の人生に益する本来の学びの姿勢を持たないのは、もったいない話である。




人生というものはいかにあらねばならないか、我はいかに行わねばならないか、というようなことを考えないような人間の面構えというものは、どうも下品で空っぽで不愉快だ。ものを言っても味わいがなく浅薄である。(黄山谷)

黄山谷曰く、「士大夫三日書を読まざれば則ち理義胸中に交わらず、便ち覚ゆ、面目憎むべく、語言味なきを」と。
(参:安岡正篤知命立命』)