いかに生きるか

どのように生きたらよいかというのを、自分の外に見い出そうとしてはいけない。

外に見い出そうと、どれほどエネルギーを費やしても、むなしさばかり募ることだろう。一時期はこれだと思うこともあろうが、それは満たされた気になるだけである。

いかに生きるかは、自身の内に見い出さなければならない。

自身の内にあるものがわからぬから、外に見い出そうとするというのはわかるが、それは、あくまで外にあるものを介して、己のうちにあるものを探す作業だと心得なければならない。

理屈が先行して、これに疑念が生じる場合には、自身の内奥にあるものを信頼するところからでも始めるとよい。

貝原益軒は次のように書いているそうである。


天地の御心は、ただ万物をめぐみやしない給うより外に心なければなり。人にありては仁なり。これ人の道なり。仁の道もまた人をあわれみやしなうより外になければ、人の道もまた知り易く行いやすし。仁を分かちて五常となる。五常の性は人に生まれつきたる理なれば、外に求めずして我に求む。およそ、外にある物は求むれども得がたし。我にあるものは、求むれば必ず得やすし・・・。(五常訓)


これは、何かを手に入れることをいっているのではない。自身がいかなるものに成るかをいっているのであり、そのためにいかにするかをいっているのである。