心の豊かさ
恩という字は、因に心と書く。
それは、原因に心を留めることだ。
「私」は、こうして生命を得て、今を生きているのだが、その「私」は過去があっての「私」である。
未来はわからぬが、間違いなく「私」の過去があって、今がある。
原因とはその過去である。
その過去を生きてきた「私」というのは、いろいろな人や事ごととのかかわりであった。
その過去の恩を大切に思い、生かされ、また、今を生きていることに感謝する。
そして、次にはその恩に少しでも報いようという心が動く。
それは、恩への感謝からさらにすすんだ、報恩の心である。
こうした心の働きをもって生きるのが、人の道である。
多くの人がこのような心をもって生きる社会は、心豊かな社会に違いない。
しかし、これほどの物の豊かさのなかに生きながらも、私たちの社会は心豊かな社会にはほど遠い。
ほど遠いどころか、ますます心豊かな社会から離れていっている。
多くの人は、生きているということが如何なることであるかを感得しなければならない。
「私」を含め、関係というものを、物と物との関係と考えてはいけない。
自身と自身以外のものが物としての関係でしかないと考えるなら、そこには恩を知る心も、報恩の心も起こってこないのだ。
人として生きる道は、生きていることの真実を心で知ることに始まる。
それは、原因に心を留めることだ。
「私」は、こうして生命を得て、今を生きているのだが、その「私」は過去があっての「私」である。
未来はわからぬが、間違いなく「私」の過去があって、今がある。
原因とはその過去である。
その過去を生きてきた「私」というのは、いろいろな人や事ごととのかかわりであった。
その過去の恩を大切に思い、生かされ、また、今を生きていることに感謝する。
そして、次にはその恩に少しでも報いようという心が動く。
それは、恩への感謝からさらにすすんだ、報恩の心である。
こうした心の働きをもって生きるのが、人の道である。
多くの人がこのような心をもって生きる社会は、心豊かな社会に違いない。
しかし、これほどの物の豊かさのなかに生きながらも、私たちの社会は心豊かな社会にはほど遠い。
ほど遠いどころか、ますます心豊かな社会から離れていっている。
多くの人は、生きているということが如何なることであるかを感得しなければならない。
「私」を含め、関係というものを、物と物との関係と考えてはいけない。
自身と自身以外のものが物としての関係でしかないと考えるなら、そこには恩を知る心も、報恩の心も起こってこないのだ。
人として生きる道は、生きていることの真実を心で知ることに始まる。