理知ばかりで生きていては

私たちは、理知ばかりで生きているのではない。

私たちの生活体験は、知的論理的側面と同時に、さらに大切な情意の側面を備えている。

知的論理的作用によって構成されるとする世界は、私たちが実在しているこの世界ではなくて、それから魂を抜いて、機械的にその種々な関係を論理の平面に展開した図形に過ぎない。

そのことによって実在そのものを把握しようとするのは、顛倒した迷妄である。

真に実在をつかもうと思えば、ぜひとも空虚な概念的幻影を打ち破って、具体的根本的な直接経験の事実から出発しなければならない。
(以上、参考: 安岡正篤王陽明研究』)

知的論理的な側面からの世界でもって、人の生きているこの世界を知っていると思ってしまう者は、小人あるいは青年のごとき者である。

近頃はこのような教育の成果が根付き、おかしな教育どころかおかしな政治をする向きも出てきている。

人たるもの、自らの足元から、ものを喰い排泄して生きるところから、人間と人間社会の何たるかを、誠実に、慎み深く学ばなければならない。