真理を求める働きと生

真理を求める。

本当を求める。

何が真実かを求める。

真実とは何かを求める。

真は何かを求める。


いろいろな言い方ができるでしょうが、人はそれを求めたいのです。

なぜそのような欲求をもつかというと、より良く生きたいからです。

より良く生きたいという欲求をもち備えているからです。


結局、よりよく生きるということを離れて、真理の探究たるものをしても、どこまでも満たされないのです。


「現代における科学や技術の問題性は、この根本である良き生との結びつきから離れて、ただ真理が真理として追い求められたところにあるといえるのではないだろうか。」(小坂国継『西田幾多郎の思想』)


しかし、人がより良く生きるというのと、私がより良く生きるというのとでは、まるっきり違いがあります。

つねに、それは私から始まっている以上、私がより良く生きることとして納得できる真理であることで安心できるようになってくるのです。

人がどう言っていようと、人が言っていることをどれほど覚え身につけようと、私から始まる欲求であることを切り離して、納得していたのでは、結局それは空虚なものでしかないのです。

私にある本質的な働きが上辺の欲求に曇らされて、
上辺の欲求を満たすために多大なエネルギーを費やして、
むなしい生を生きないようにしたいものです。