善性の全面的発現を阻むものは

心は身体に制約されて本来の善性を常に全面的に発現することはできない。(参考;吉田公平『伝習録』)

人の本性が本来的に善であるかどうかは、私にはわからない。

しかし、人は、いのちあるものとして、いのちを開花させようとする働きを、本来的にもっていることはわかる。それは、意思をもたない生命体とも同様のところにある。

一個の生命体は、その生命を全うしようとする本性をもっていることを、私は信じる。

意思、こころをもつ人間の本性も、人間としての生命を全うしようとする本性に違いない。

それは、人間としてのいのちを開花させようとする働きと言っても同じことだ。

生命に、こころも身体もないのである。その根っこは、同じである。

ただ、人間の生命の全うと、自我をもたぬ生命体の生命の全うとは、その生命の現われ、成長の現われ、いのちの開花の形が異なるのである。

本来、生命の全うには、善も悪もない。

しかし、人間には、こころをもつがゆえに善悪の判断が生まれ、人間として生きるためにその判断が求められるのである。

身体は心に制約されて本来の善性を常に全面的に発現することはできない、とも言えそうである。