人に備わったもの
彫り物師、彫刻家、仏師など、それなりに経験をつんだ人たちは、
作るというよりも、もともとそこにあるものを彫り起こすのだ、
と表現することがある。
「人が成る」というのも、それに似た思いをすることがある。
自己実現というのも、それは常に過程のうちにあるのであるが、
イメージ的には、
不確かながらそこに一つの完成された姿があり、
それを彫り起こすのとよく似ている。
自己を高める作業として、まず外に追い求めていく過程があり、やがて内に求める過程に変わるというのも、これに似ている。
こう考えると、
「人が成る」と言うにしろ、自己実現にしろ、
本来的に在るものを在るものとして現していく、と表現することもできるのである。
また、本来的に在るものを在るものとして現そうとする、その動きが我々に備わっている、ということを認めるならば、
不動の動者とも言えるものが、我々、人の一人ひとりのうちに備わっているとも言えるのである。
そう思えると、一人ひとりの人に手を合わせたくなるほどの尊さが、そこに見えてくるのである。
作るというよりも、もともとそこにあるものを彫り起こすのだ、
と表現することがある。
「人が成る」というのも、それに似た思いをすることがある。
自己実現というのも、それは常に過程のうちにあるのであるが、
イメージ的には、
不確かながらそこに一つの完成された姿があり、
それを彫り起こすのとよく似ている。
自己を高める作業として、まず外に追い求めていく過程があり、やがて内に求める過程に変わるというのも、これに似ている。
こう考えると、
「人が成る」と言うにしろ、自己実現にしろ、
本来的に在るものを在るものとして現していく、と表現することもできるのである。
また、本来的に在るものを在るものとして現そうとする、その動きが我々に備わっている、ということを認めるならば、
不動の動者とも言えるものが、我々、人の一人ひとりのうちに備わっているとも言えるのである。
そう思えると、一人ひとりの人に手を合わせたくなるほどの尊さが、そこに見えてくるのである。