信じることを失っては
「信なければ立たず」という言葉が論語のなかに出てきます。
信じることが無ければ、成り立たないということでしょう。
何が成り立たないのか。
「人」にまつわることです。
それは、「私」のことです。
それは、「私たち」のことです。
それは、「恋人同士」のことです。
それは、「夫婦」のことです。
それは、「兄弟」のことです。
それは、「親子」のことです。
それは、「友人」のことです。
それは、「仲間」のことです。
それは、あらゆる「人間関係」のことです。
それは、「社会」のことです。
それらは、信じることが無ければ成り立っていかなくなることだ、ということでしょう。
そして、不信に終始することになれば、われわれは、終には生きていけなくなります。
それは、最後には「私」や「共有する根っこ」への不信に行き着くからなのかもしれません。
一つの厄介さがあります。
それは、その出処は他のものからのように思えますが、信も不信も私から出ているものだということです。
また、こういう厄介さもあります。
荀子では、「信を信ずるは真なり。疑を疑うも亦た真なり」とありますが、
これもまた、正しいのです。
信じることが無ければ、成り立たないということでしょう。
何が成り立たないのか。
「人」にまつわることです。
それは、「私」のことです。
それは、「私たち」のことです。
それは、「恋人同士」のことです。
それは、「夫婦」のことです。
それは、「兄弟」のことです。
それは、「親子」のことです。
それは、「友人」のことです。
それは、「仲間」のことです。
それは、あらゆる「人間関係」のことです。
それは、「社会」のことです。
それらは、信じることが無ければ成り立っていかなくなることだ、ということでしょう。
そして、不信に終始することになれば、われわれは、終には生きていけなくなります。
それは、最後には「私」や「共有する根っこ」への不信に行き着くからなのかもしれません。
一つの厄介さがあります。
それは、その出処は他のものからのように思えますが、信も不信も私から出ているものだということです。
また、こういう厄介さもあります。
荀子では、「信を信ずるは真なり。疑を疑うも亦た真なり」とありますが、
これもまた、正しいのです。