影のような死

「死」は、「生」の影のようなものだ。「生」が浮かび上がると、本来、その影である「死」は一層明確になるはずだ。時にどちらが影なのかわからなくなるときもある。そして、最後には、影が生に取って代わる。
生とはそういうものだ。

中島義道さんは次のように言う。

「死んでしまうかぎり」幸福はありえないと確信している私にとって、世のおびただしい幸福論はこのことを直視しない「まやかし」である。まやかしの中にも、すぐれたものもある。だが、それはまやかしの枠内ですぐれているにすぎない。(『不幸論』)

死から逃れられない限り、我々に幸福はありえない、ということだろうか。だとすれば、私はこれを正しいと思う。

しかし、普通、多くの人はそこまでは考えない。いや、わかるけれども実感しないのだ。切実さを伴わないのだ。そして、それが普通の生き方を導くことになる。

そんなわけで、中島さんのような人は、肯定的には死を直視する人とも捉えられるだろうし、また否定的には、死に取り付かれた人とも捉えられるのかもしれない。

しかし、いずれにしても、「(死なねばならない)自分(私)をどう生きるか」という問いをもつ者には、興味深い考え方である。