水底の静かな深み?

世俗の生活のなかで、私欲にとらわれて現実の利害にふりまわされているのが、われわれである。起伏の多いその波間にゆられて喜んだり悲しんだり、しかしその水底の静かな深みを知るものは少ない。(金谷治老子』)

私たちは生活をしている。すなわち、これは、通常の私たちの生活というのは、世俗世界のうちにあるということである。この世俗世界とは、生活世界と言ってもいいだろう。その世界は、私利私欲に満ちた世界である。良い悪いではなく、まず、その事実を認めよう。
我々は私利私欲を持っているし、私利私欲から逃れることはできないのである。それが生きていることであり、ただ生きているというのではなく、生活しているということなのだ。そして、人々が造りだしている生活世界なのだ。
しかし、私利私欲に満ちたと言っても、私利私欲がすべての世界ではないし、私利私欲が「私」のすべてではない。
この生活世界は水底から滲み出ているものがある世界でもあるし、「私」はその水底から滲み出てくるものをもつ「私」なのだ。我々は、それを、我々が自戒するということによって知ることができる。それは、自己内不調和をもたらすものでもあるし、調和へと導こうとするものでもあるのだ。
では、我々は、谷深く流れる水をいつも見ようとすればよいのかというと、それではだめなのだ。それでは現実の生活世界で、つまずいてしまう。私たちが生活している世界とは、それとは離れたところにあるものなのだから。ましてやそこに、現実の生活世界を生きる規範など探しても、あるものではないのだから。