日本という国の人々

日本という国、あるいは日本人たちというのは、まことにたくましいと思えるときがある。

そこには、一つの興味深い特徴があって、
それは、他国、海の向こうにあるものに対する、あるいは海の向こうから来るものに対する、受容度の高さといっても言い。

言葉を変えれば、外から来るものに対して許容量が大きい、あるいはたいへん寛容なのである。

あるいは外にあるものを積極的に受容すると言ってもいいだろう。

イメージ的には、なんでもどんどん食べてしまう、あるいは飲み込んでしまう。
そして、成長する。

しかし、そこには、海の向こうから来るものを、そのまま使うのではなく、
当人たちも知らずに、あるいはさほど意識せずに、使いやすいように、
微妙に改変してしまうという無意識的働きかけが作用する。

遠藤周作さんは、その著書『沈黙』のなかで、宣教師フェレイラに
主人公の司祭ロドリゴに向けて、次のように語らせている。

「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。
この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。
どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。
葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

これは、布教者、キリスト教徒からの言葉だが、彼らの言う「沼地である者」からすると、
次のような言葉になるのかもしれない。

「我々は大いに受け入れまっせ。何でも持ってきなはれ。」

ただ、受け入れはするのだが、そして、当人たちも受け入れたと思っているのだが、
実はあれこれ微妙に、時には大いに変化させてしまうのだ。
そして、それが以前からそこにあったかのように定着させてしまう。

持ち込もうとする者たちからすると、それを見抜いた者には、
沼地のように、誠に厄介な者たちに見えてくるに違いない。

しかし一方で、それは恐ろしいほど、たくましい存在の有り様に違いないのだ。