いのちの大切さ(っていうけどね)

いのちの大切さ

これを言ったり、教えたりする前に、
いのちとは何かを考えたり、考えさせたりしなければいけないと思うんだよね。

いのちの大切さって言うんだけど、
これは、
いのちを考えていったときに出てきた、一つの答えのようなものじゃないのかなあ。

子供だって、大人だって、
答えを教えられても、教わっても、
道理や本質がわかるわけはないし、
身につきもしないし、
納得もできやしないんだよね。

わかったような答えばかりを言う人は、胡散(うさん)臭さを振りまくばかりで、かえっていやになっちゃう。

いのちが大切だからといって、
すべてのもののいのちを大切にするなんて、できっこないしね。

いのちが大切だって言う、その人だって、
いのちあるもののいのちを食って、生きているのだし、
私だって、誰だった、そうなのだし、
そうしなくっちゃ生きていけないよ!

いのちあるもののいのちを奪わないで、
いのちあるものがそのいのちを生かしていくことはできないのだから、
いのちを大切にするなんて、
ちょっと簡単すぎる答えにも思えてくるね。

で、それじゃあ、
いのちとは何かって、ことなんだけど?

悪いけど、
その答えは、自分で出さないといけないんだ。

人が言っても、
ふ~ん、そうなのか、くらいに思っていればいいんだ。

やっぱり、自分で考えなくっちゃね。

でも、その答えを出すのには、
大人だって、子供だって、時間がかかるんだ。

でも、ヒントになることは、そこいらじゅうにいっぱいある。

生きている限り、ヒントはいっぱい出てくるんだ。

でもって、
その答えは、いつ出るかって聞くかもしれないけど、
その答えは、いつだって、出てくるんだ。

でも、その答えは、定まらないんだ。

だから、子供もちょくちょく、その答えを出そうと考えたり、
考えて答えを出してみたりしているし、
大人だって、年寄りだって、おんなじようなことを考えて、答えを出してみたりしているんだ。

でね、答えは出るんだけれど、
それでも、定まらないんだ。

でもね、やっぱり答えは定まっているらしいんだ。

だから、答えを出しても、やっぱりまた、考えるんだ。

それがね、いのちを考えるってことだし、考えてるってことなんじゃないかな。