不登校とは学校へ行けなくなることか

不登校とは「学校に行けなくなること」だと解するのは、多分普通のことでしょう。しかし、そんなふうに解してばかりいることに、慣らされてよいのかどうか。
各種報道でも、「学校へ行けなくなった」子供達と表現し、不登校の児童生徒数のグラフが表示されたりします。つまり、学校へ行けなくなった子供達イコール不登校児だと、大抵の大人たちや子供達の脳にインプットされるのです。
しかし厳密には、不登校とは子供が学校へ行けなくなったり、行かなくなったりして欠席を続ける現象です。
少々ややこしいことを言いますが、不登校をどう解するかで、その子供に対する親の対応行動も違ってくるし、子供自身の自己評価だって変わってきます。
私達の脳は、「学校へ行けない」を「学校へ行きたいけど行けない」とも解するし、「学校へ行かなければならないけど行けない」とも解します。それから「学校へ行こうとするけど行けない」と解するのもあるでしょう。そう解するとなると、この事態を「なんとか学校へ行けるようにしてやろう」あるいは「学校へ行けるようにならなければ」と考え、そうした行動をするのは当然のこととなります。それはそれで良いでしょう。
しかし時には、否、往々にして次のように考えることも必要です。この子は(あるいは私は)「学校へ行けない」のではなく「学校へ行かない」のだ、と。つまり「この学校へは行かない、という選択をしているのだ」と考えることも往々必要です。
しかし先に言ったように、「学校へ行けない」と頭に刷り込まれているとなかなかこの発想に向かわない。あるいはブレーキがかかる。

不登校には、「こんな学校なんかに行くものか!」というのも、「こんな学校なんかに行かせてなるものか!」という考え方も十分にありです。その意味ではかつて使われていた「登校拒否」です。積極的登校拒否なのです。
となると、今度はそれなりの対応や行動を起こさねばならない、と考えるようになります。

子供の一番の味方になれるのは誰よりもその子の親なのだ、ということをよくよく親は知らねばなりません。であるがゆえにこそ、ここでいう発想は大切なのです。
さらに自分にとっての一番の味方は自分自身なのだということも自覚すべきです。だから「子供自身(自分自身)が一番苦しんでいる」のです。こうした「自分自身」という考え方はだいたいこのブログに一貫していると思います。
(注意書きをしておきます。かつて使われていた「登校拒否」という用語は、積極的に登校を拒否するという意思表示のために使われていたわけではありません。かつて使われた「登校拒否」が現在の「不登校」だと理解してよいでしょう。)