いのちは誰のものか

自分のいのちは、自分のもの。
確かにそうだ。
私のいのちは、私のもの。
あなたのいのちは、あなたのもの。
確かにそうだ。
確かにそうなのだけど、少しぼんやり考えてみると、そうとも言えないような。
そう。
「そうとも言えないような」というところが大事なのだ。
頭だけで考えていると、つい一つの答えを出そうとする。
生きているって、そんなに単純なものじゃあない。
生きているって、複雑だ。
このことは、きっとうなずけるだろう!
このうなずきこそ大事なのだ。
「このいのちは私のもの」なんて、単純には言えない。
自分のいのちは自分のもの、私のいのちは私のものなんてばかり、単純に考えようとしてはいけない。
こんな大事なことを単純に考えようとする誘惑に、負けてはいけない。

「いのちは誰のものか」についての私なりの考え方は、このブログのいろいろなところに書いてきている。きっと、この後も書くだろう。

「私のいのちは私のものなんだから、どうしようと私の勝手でしょ」なんて、目の前で言われたら、誰だって「えっ!」とか「おいおい」とか思うに違いない。

また、「私のいのちを、私の思うようにさせてほしい」と、目を見つめて言われたら、一瞬「う~ん」ってなっちゃったりするだろう。

「いのち」って、そういうものなのだ。
「いのちが誰のものか」っていう問いの答えは、そういうところにある。
そして、考えるというよりも、感情や気持ちを静かにして、素直になれば、その答えがみえてくる。