観念の遊戯に堕して

「気分の満足、観念の遊戯に堕して、理想を持ちながら、現実に虚しく亡んでゆく・・・」(安岡正篤

理想を持つことは素晴らしい。気分の満足は心地よい。

若い人たち、あるいは若い時には、時にこの熱病におかされる。

しかし、人によっては、この熱病のような病を年齢を経てもおさめきれない者もいる。

その多くは生活苦を知らずに年を重ねた者か、抗しがたい大きな力に翻弄されて性格の偏奇した者かだろう。この者たちが、時に熱情のある若者に影響を与える。そうして、双方、気分は満足状態となる。

安岡氏は、先の文面の後、次のように述べている。

「(・・・亡んでゆく)ということが、人類の長い歴史の常に示しておるところであります。」


理想を持つことは素晴らしい。そして、理想は持つべきです。
しかし、さらに大切なことは、理想をいかに現実の中に加味していくかということ、あるいは現実をいかに理想に近づく現実にしていくかということです。
そこには、実際的な、自身が痛むような苦しみが必ずあります。これがまさに現実であります。その現実の中で、理想はより現実的な取り組みとなり、現実の修正が行われていきます。それまでの理想は、観念の遊戯から離れていきます。

もしこのことを知らず、理想を語り、人に呼びかける者があるとすれば、その者は観念の遊戯で人を鼓舞し、自身の気分の満足に浸っている者と言わねばなりません。

私たちは、知識や知的言葉が真実を伝えるものかどうか、ということに注意しなければなりません。また、一時の感情にも注意しなければなりません。

理想と現実についての上記の問題。これは個人のあり方においても、集団や組織のあり方においても、また政治・政策のあり方においても考えなければなりません。

政治・政策のあり方について言えば・・・、さて次の選挙では、どのような人たちから、どのような訴えを聞くことになるでしょうか。