生き方と人との勝ち負け

「どう生きるか」と考えてまず思うことは、「自分を生かす」ということではないか。
「どう暮らすか」も大切だが、「自分をどう生かすか」の方も負けないくらい大切ではないか。・・・
 ・・・負けまい負けまいと考えているだけでは、目に見えぬ「敵」に心がさいなまれて、健康を害することにもなる。ストレスがたまるのも当然だ。・・・
・・・人生は勝ち負けの観点で仕分けすれば、むろん勝たねばだめだし、勝ち残らなければだめだ。ただ、勝敗にのみとらわれれば、ついに心が休まることはない。勝敗以外、自分を最高に生かしきれば、それこそ無敵の境地にまで至れるだろう。それは「負けまい」「負かそう」のせきたてられ、波立つ胸から生まれるのではなく、「自分を生かそう」「生かしきろう」という考えを実現したあかつきにこそ得られるものだろう。
(邑井操『遅咲きの人間学』)

克己(こっき)という言葉がある。己に克(か)つということである。
これは当然、他人(ひと)に勝つよりも自分に勝つことを重視するところから生まれた言葉である。もう少し言えば、他人に勝ろうとする私欲に克つことを言っている。
他人を相手にせず、自分を相手にせよということでもある。克たねばならないのは私欲に対してであり、引き出さねばならないのは自身である。

邑井氏は、社会にあっては、勝ち負けはあるものとしている。そして、勝ち負けがある以上は勝つべきだとしている。人が世間、社会に生きる者である以上、負け犬の如く生きているのではいかんということだろう。
そして、勝つのには最高の勝ち方があると言い、自分を生かす自分になることが他人(ひと)に勝る自分になる最高の道であると勧めているのだ。

「(その考えを)実現したあかつき」を、何も遠い将来や人生の終焉と考える必要はない。実現とは日々の生活にある。そういう生き方を日々に実現することこそ「実現したあかつき」と考えるべきだろう。