命を終えるとき

一人でいることをとても意識するときがあります。

それを意識しないときは、一人だということを忘れているときのようにも思います。

私の考えの中には、「私」は「一人」であることが否定できないものとして、常にあるようです。

考えてみれば、一人で生まれてきて、一人で死んでいくわけですから、「一人」に違いないのです。

しかし、これは思念の世界です。

生きてきたなかで、「一人」を意識し始めたきっかけは何だろうかと考えてみます。

すると、親に自分が理解されないと思い始めたこと、また、教師に理解されないと思ったことなどが思い浮かびます。

でも、それは比較的意識のなかで思い返すことができる範囲のことかもしれません。

そのもっと前に、周りの者とは違う自分、周りの者としっかりと交えない自分、あるいは周りの者に対する違和感があったようにも思えます。

こうして、「一人でしかない自分」をいやおうなく意識し始めたように思えます。

でも、
「自分」は「一人」だ! 「自分」は「一人」だ! と言って、
一人でいることを求め、
その一方で、誰かを求めています。

その誰かというのは、(自問すると、)「私」を「一人にしない」誰か、ということのようです。
究極的な、その「人」を求めているようです。

そんなことが可能なわけがありません。
しかし、可能なわけがない、というのは頭で考えた答えです。

だから、心はそれを納得せず、頭と違ったところで、求め続けているようです。

この求め続けているものが、この求め続けていることが、もし、母体への回帰であるとすれば、
(私には、そのように思えるのですが・・・。)
この世に生まれ出でたことから、その思いが始まったともいえます。

実際には、その回帰が実現するわけではありませんから、
命を終えるころには、やっと満たされる思いになるのかもしれません。

そう思えるような、やすらかな命の終わり方でありたいと思います。