あいまいさ

「あいまいな日本人」とか、そういう言葉があったような。

そこで言われるこまかな主張内容はともかくとして、
時に、あるいは往々にして、「あいまいさ」が否定の一色で染められて、強調して述べられたりする。
(現在の身の周りは、すでにそうしたことさえ言われなくなって、突き進んでいる感さえある。)

もちろん、「あいまいさ」には大いに否定的な面がある。
しかし、物事には否定的な面もあれば肯定的な面もあることを知らなければならない。

「あいまいさ」とは不明瞭さだ。「あいまいさ」を否定的にみるということはそれを嫌うということにもつながっていく。

はたして、それでよいのだろうか。

一人の人間が生きているその現れとしての姿は、人の目に明瞭に見える。しかし、その背景の奥底まで明瞭に定まったものであるかというと、そのようなことはない。
奥底は常に闇のなかにある。そこに明瞭さなどないし、求めようもない。それが「いのち」を生きているものの姿だ。

一人ひとりの我々は、常に「あいまいさ」を伴って生きている。

だから、定めようもないものまでを定めようとしてはいけない。

それは、できもしないことを、できると思い込んで努力するのと似ている。
見えもしないものを見えると思いこんで見ようとする姿でもある。

ましてや、それを他の人や人たちに、要求してはいけない。
また、そのような要求にのってはいけない。

しかし、何かの行為をするときには、心を定めなけらばならない。
そのときには、心を定める。

その場合に、「あいまいさ」はどこへいくのか。捨て去るべきか。

そのようなことを考える必要はない。

「あいまいさ」は常に残るのだから。
生きているということは「あいまいさ」のなかにあるのだから。

決めた次の瞬間には「あいまいさ」があるのだ。
それで良いし、それを受け入れなければならない。

それが受け入れられるというのは謙虚さであり、それが受け入れられないというのは生への傲慢さだ。

他者(ひと)の「あいまいさ」が受け入れられないという人は、他者の生への謙虚さをなくしている。
自身のそれが受け入れられないという人は、自身の生への謙虚さを見失っている。

「あいまいさ」が受け入れられるというのは、「いのち」あるものへの謙虚さでもある。

我々は、「あいまいさ」とその「受け入れ」という、あまりにも肯定的な側面を見失ってはいけない。
また、「あいまいさ」が受け入れられる態度を、より高次なものとしても考えなければならない。

「あいまい」であることを恐れてはいけない。