遅れを恐れる人々

我々は、常に遅れる存在である。

文明・文化、知識・技術は常に変化進展している。
情報は常に流れ、新しく更新されていく。

誰がその最先端を常に生きられるだろうか。その最先端に生きられる者は、誰一人いないのである。

「テレビの解説者とか、大学教員とか、会社の経営陣とか、研究所の研究員とか、一見すると「世界」の最先端をすすんでいて、「おくれ」とは無縁のように見えている人たちがいるが、彼らも立派に「おくれ」ているのである。」(村瀬学自閉症』)

現代というよりも、現在の人々は、特に、せかされ、せかされ、生きている。

このせかされた挙句におかしくなる者がいても、今は、なんら奇妙に思えない社会なのである。人々は、それほどせかされて生きているのである。

遅れていないかのように見える人々は、「ただそれを隠して、自分は誰よりもすすんでいるんだと見せかける術(権力的な位置)をもっているにすぎない。」(村瀬)

我々は、常に遅れる存在なのだ。

そのことを知って生きること、そして、そのことを知って生きる術をもつことは大切だ。

人のごく普通の暮らしとして、遅れても暮らせることを知っている人々の社会は、さらに豊かな暮らしを創り出すに違いないのだが・・・。

しかし、社会を変えるなどと言わなくてもいい。

遅れても普通に生きられることを知っているだけでも、その人は豊かさを手にして暮らせるだろう。