行きたくない人

子供のときに、すでに、小学校のときから、たいして学校というところへ行きたいと、それほど思わずに行っていた。
時には、ずる休みをしたり、時には、といっても、たいていは、いやいや行ったりしていたものだ。

そういう者は、往々にして、大人になってからは、職場へもそれほど行きたがらない人間なのかもしれない。

(などと言うのは、ちょっと、言い過ぎか。)

私は、学校へ行きたがらない、職場へ行きたがらない自分を、否定的には考えていない。

第一、どう考えてみても、毎日のように、喜び勇んで学校へ行ったり、職場へ行ったりしている人間など、そう多くないのに決まっている。
「行きたくない」などとあまり思わない人間のなかには、行くのが当たり前と思ってしまっている者も多いだろうから、そういう者をも含めて考えると、やはり、どちらかというと行きたくない、と言う者が多いのだろう、と勝手に考えている。
それに、「行きたくない」などという考え方は、日本の一般的な社会通念的価値観からすると、良しとされるものではないから、その価値観をしっかり自身の中に取り込んでいる者からすると、それは「悪」であったり、考えるべきものではなかったりするのだから。

「行きたくない」理由にもいろいろあるだろうが、私などは、そもそも子供のときから、管理されることが嫌いだったのだ。(もっとも、幼い子供のときに、そんなややこしい概念を知る由もないが。)

それが、集団的に管理されるとなると、ますます嫌になってくる。

また、集団に自分を合わすことも、好きでない、という理由もある。



私は、自分を肯定する。

だから、私は、そういう自分の傾向も肯定する。

だから、私は、そういう自分から出てきた、学校へ「行きたくない」という気持ちになる自分、職場へ「行きたくない」という気持ちになる自分を肯定する。

そんなわけで、というか、だからというべきか、

私は、職場へ行きたがらない自分を、肯定して、生きている。