思考と感情
行動を決めるときによりどころとすべきは、感情なのか、思考なのか、どちらだろう。
この問いには、思考だと答えたい。
しかし、自分という人間が、感情で満たされているときには、
思考はうまく働いてくれない。
苦しみや悲しみ、辛さ、喜び、など、
まさにそれを経験しているときには、自分の心をも、距離をおいてみることが難しい。さらに、外の世界も自分の感情に大きく彩られているだろう。
頭でいくら客観的に自分の心、胸のうちを考えているようでも、
それ自体が感情のうちにあるという場合などが、まさにそうだ。
頭と心でもがいているときとも言えるだろう。
しかし、そうした生身のものが薄らぐにつれて、距離をもって見ることもできるようになる。
あるいは考えることができるようになる。
もちろん、少し変わったところでは、感情があるはずなのに、頭でしか考えていないほど、
自分の感情でありながら、それを柱にでも縛り付けてしまっているようなこともあるが、
これは、人に普通に起こることというよりも、
ある特定の人に見られることと言った方がよいだろう。
いずれにしろ、行動を決めるのに、思考をよりどころとするのをよしとするが、感情で自分が包まれているときには、思考が往々にして適切に機能しないことがあるので、注意しなければならない。
興味深いことがある。
思考の力によって、物事を判断し、行動するのが常によいかというと、
これがまた、人生にはそうではない場合もあるようなのだ。
人生には、時に、感情の力で、行動する方がよい結果を生むこともある。
このあたりが、人の行動、自分の行動判断に、何をよりどころとするのがよいのか、難しいところなのだ。
さて、しかし、実は、いまひとつ考えなければならないことがある。
それは、ここまで感情と思考とを区別して、考えてきたのだが、
生きていることにおいて、それらは別々に機能しているのか、ということだ。
実は、区別なく働いているだろう。
とすると、
行動判断のよりどころというものを、さて、どう考えるべきか?
この問いには、思考だと答えたい。
しかし、自分という人間が、感情で満たされているときには、
思考はうまく働いてくれない。
苦しみや悲しみ、辛さ、喜び、など、
まさにそれを経験しているときには、自分の心をも、距離をおいてみることが難しい。さらに、外の世界も自分の感情に大きく彩られているだろう。
頭でいくら客観的に自分の心、胸のうちを考えているようでも、
それ自体が感情のうちにあるという場合などが、まさにそうだ。
頭と心でもがいているときとも言えるだろう。
しかし、そうした生身のものが薄らぐにつれて、距離をもって見ることもできるようになる。
あるいは考えることができるようになる。
もちろん、少し変わったところでは、感情があるはずなのに、頭でしか考えていないほど、
自分の感情でありながら、それを柱にでも縛り付けてしまっているようなこともあるが、
これは、人に普通に起こることというよりも、
ある特定の人に見られることと言った方がよいだろう。
いずれにしろ、行動を決めるのに、思考をよりどころとするのをよしとするが、感情で自分が包まれているときには、思考が往々にして適切に機能しないことがあるので、注意しなければならない。
興味深いことがある。
思考の力によって、物事を判断し、行動するのが常によいかというと、
これがまた、人生にはそうではない場合もあるようなのだ。
人生には、時に、感情の力で、行動する方がよい結果を生むこともある。
このあたりが、人の行動、自分の行動判断に、何をよりどころとするのがよいのか、難しいところなのだ。
さて、しかし、実は、いまひとつ考えなければならないことがある。
それは、ここまで感情と思考とを区別して、考えてきたのだが、
生きていることにおいて、それらは別々に機能しているのか、ということだ。
実は、区別なく働いているだろう。
とすると、
行動判断のよりどころというものを、さて、どう考えるべきか?