衝動に支配されそうなときに

人は、特殊な状況とか、特殊な環境とかにおかれた場合、

あるいは、そうした状況や環境にいることが続いた場合、

自分でも、自分を対処できないような、奇妙な衝動が沸き起こる場合があるようだ。

こういうときは、得体の知れぬ恐怖あるいは不安を経験するだろう。

このような場合、できるだけはやく、(この奇妙な衝動に自分が突き動かされぬうちに、)この衝動に突き動かされぬように、何とか対処法を見出し、行動を起こさねばならない。

対処法の一つとしては、
(緊急であるために)
自分ひとりでできる、その衝動をごまかす方法を見つけるということがある。
その衝動をなだめる方法だから、ちょっとしたえさをやるようなものと考えるとよい。
おそらく、その衝動が何を求めているかは、わかるだろう。
しかし、所詮その衝動を満たすほどのものは与えられないから、これは、緊急的対処法くらいに考えておくといい。
いずれにしても、考えるべきことは、自他の危険の少ない擬似的な行動により、その衝動の欲求を満たすことなのだ。

さらに次の対処法としては、人の力を是非借りることだ。
借りれそうな者は誰でもよい。
自分ひとりで対処するには、衝動というのはあまりにもエネルギーが大きすぎるのだから。
特定の人に、具体低にその衝動を打ち明ける方法もある。不特定の誰かに、その衝動を打ち明ける方法もある。
しかし、大切なことは、衝動にえさを与えなければならないということだ。
衝動にえさを与えることによって、その衝動のエネルギーはおさまる方向を持つからだ。
社会的承認が得られる形のもので、そして自身の身や他者の身に危険のない形で、したがって、擬似的な形で、その衝動にえさを与えるのである。
基本的考え方は、一人でやる場合も同じだが、他者の手(力)を借りることで、効果は倍増するだろう。
場合によったら、そうしたえさを与えて、様子を見て、また与えることを繰り返すことも必要になるだろう。うまくいかないようなら、手を変え、品を変えということもしなければならないが、それでもいい。
とにかく、重要なことは、衝動に飲み込まれないようにするということなのだ。
そして、その衝動のエネルギーを減少させることなのだ。
それは、自他の安全を確保する形での、できるだけ衝動を満足させるえさをやるということなのだ。自身とか他者の身をより危険にさらしそうな対処法を選んでいると思うなら、次には、より安全な対処法を考え、行動することも大切だ。
(その衝動は、必ずしも人に打ち明けなければならないというものではない。その衝動に、えさをやることができればよいのだから。)

衝動というのは、時に、突然起こってくる。
対処法を知っておくことは、大切だ。
無意識的に対処法と言えるものをとっている場合もあるが、意識的にすることによって、危険度をさらに減少させることができるだろう。