青年期(のやり残し?)

団塊の世代の人たちのことがテレビなどでよく報道される。

そうした報道から、考えたことがある。

それは、
青年期にしていたことをもう一度やろうとする人たちがいる、ということだ。
それは、
青年期にやりたくてやれなかったことを、もう一度やってみたい、という思いからなのだろう。
あるいは、もっとやりたかったがやれなかったことを、再びやりたい、という思いからなのだろう。

このように考えると、
人は、
青年期に、
それまでやりたくてやっていたこと、あるいはやりたかったができなかったことに、
思いを残しながらも、
その後、
それまでとは違う生き方に入っていくのかもしれない。

たぶん、たいていの人たちがそうなのだろう。

そして、定年退職をする頃になって、もう一度あのときの思いを求めて、それをしようとするのだろう。

その後、どうなるか。

青年期に途中になっていたことを再び始めて、満たされた思いを抱き、さらに続けていく人もあるだろう。

しかし、
青年期に満たされなかったことを再度やって、その上で、別の新しいことを見つけようとする人もいるようだ。

このような人は、青年期に満たされなかったものを(ことを)確認し、その作業を終えて、今の自分が求めているものを探し出そうとしているように見える。

このことはなにを意味するだろうか。

やりたくても途中のままに終わってしまったという思いがあるとしても、青年期の自分が、自分本来のものだったということにはならないということだ。

自己の本来のものは、やはり今の自己のうちにあるということなのだろう。

そして、表層に生きている自己を、今一度、もう少し深い自己をもって生きようとするのだ。


ちなみに、なぜ人は、青年期以降、道を変えなければならなくなるのか。
それまで、やりたいことがある程度やれていたのに、その後、思いどおりにならなくなるのはなぜだろ。

それは、自分自身で、経済生活を始めるようになるからだ。
働いて、生計を立てる生活に入るからだ。

そして、このような人生が、普通の多くの人の生きる道筋なのだ。

しかし、より深い自己をもって生きようとするのは、誰しもの道筋ではない。

そうしようとする者によってしか、その道は歩めないのだ。