自己肯定・自己否定・肯定否定のない自己

肯定に対して、否定という言葉がある。

さて、人間の、自分自身ということに関しては、

自己否定に対して、自己肯定という言葉を使うことができる。

そこで、

人間は、常に自己肯定しようとしつつ生きている、という考え方をもつことができる。

それは、

「人間は、自らが自らを否定していては生きられない」と考えることができるからだ。

これは、

人間は、自らの存在価値を否定しては生きられない、という考え方だ。

人間が自らの存在価値を否定したら、どうなる?

生きていられないではないか!

とすると、

自らが、自らを殺すしかないではないか!

それが具体的行動に移れば、自死という行為を導くことになるのだ。

なるほど、

筋としては、確かにそう考えられる。

そこで、「自らを自死に至らせないためには、自己肯定が重要だ」ということになる。

これも、もっともな論理である。


しかし、ここで、

「肯定と否定」という価値認識を問えばどうだ!

つまり、

「あるものを肯定するのか否定するのか」、あるいは「肯定・否定」という価値認識のあり方を問えばどうだろう。

つまり、たとえば、

「私が生きている」ということについて、そこには肯定的価値も否定的価値もない、という考えだ。

そこに肯定も否定もないし、価値云々を考えることもない、ということだ。

こうなると、前者の考え方Aは否定されることになる。

そこで、

どちらの考え方が現実として正しいか、と問うてみて、

Aだ、Bだ、と考えてはいけない。

AもBもあるのだ。

しかし、

おそらく、多くの人について適用できやすいのは、考え方のAであるだろう。
  
そこで、

自らを快適にしようとするに際して、あるいは他者を快適にしようとするに際して、たいていの場合に言えることは、

自己の肯定化の大切さであり、また、自己の肯定化を助けることの大切さなのだ。


では、ここで、自らを快適にしようとするに際して、あるいは他者を快適にしようとするに際して、

考え方のBを捨ててよいのかどうか。

それは、否である。

考え方のBを持ち込める余地があるなら、それは、常に重要といわねばならない。

なぜなら、それは、

自己の相対的価値付けを否定するものであるからである。

そこには、絶対的価値を指向する場合と、「あるがまま」を指向する場合がある。

ただ、ここで、

これらに自己肯定が潜んでいないかとさらに問うと、「絶対的価値指向」には自己肯定があり、

「あるがまま」には「そこに自己肯定がない」ということについて疑問が残ると言っておこう。