理性と体験と(死と生)

生は労役で、死は休息であると説く思想がある。

思想とまで言わなくとも、納得する人も多いだろう。

宗教のうちにも、死後の世界に極楽浄土があると説くものもある。

ならば、それを説く偉い(?)人たちが、死に急ぐかというと、そうではない。

奇妙なことではないか。

たとえ、考え抜くようにして考えたとしても、考えたことは理性によるものなのだ。

いくら、死は休息である、とか、そこに極楽浄土があると考えても、また、それを信じても、われわれの本能はそれを許さないのだ。

われわれは、これ、すなわち本能を体験しているのに、往々にしてわかっていない。

なぜなら、すべてを理性で知ろうとするからだ。

理性の網で体験を掬(すく)い取っても、理性の網の目から体験の多くは逃げていく。

理性が強い者は、失うものが見えないことになる。

知は、ある面では本能を超えたかのようだが、ある面では本能を超えられない。

これを知ることは、大事なことだ。